ドラム缶の起源
1859年アメリカ・ペンシルバニア州におけるドレイク油田の成功により、従来の鯨油に代わり、石油が一般的に使用されるようになりました。
当時、採掘された原油の運搬や貯蔵には木樽(wooden barrel)が使用され、これが現在のドラム缶の起源だと言われています。
しかし、良質な樽は作るのが難しかったり、気密性が完全でないという不具合があり、これを改善するため「にかわ」のライニングを施す等の工夫がされていましたが、これも気候の寒暖に影響を受けやすく満足のいくものではありませんでした。
ドラム缶の発明
現在のドラム缶に類似した容器は、1903年にアメリカのエリザベス・コークラン・シーマン夫人により発明(デザイン登録)されました。
彼女はピューリッツア賞の創設者であり、ニューヨーク港に自由の女神を建立したジョゼフ・ピューリッツアによって見出され、世界最初の女性新聞記者になった、ネリー・ブライ(フォスターの名曲『ネリー・ブライ』から取ったペンネーム)で、ヨーロッパ旅行をしたときに、グリセリン用の金属容器を見聞きしたことをきっかけに、帰国後、経営を任されていたニューヨーク州のアイアン・クラッド社で試行錯誤の末、現在のドラム缶と類似した容器を考案しました。
彼女はその後「アメリカン・スチール・バレル」という会社を設立し、200Lドラム缶の量産体制を確立し、今日まで「ドラム缶の始祖」として語り継がれています。
ドラム缶の発展と日本への渡来
1914年第一次世界大戦勃発に伴い、石油の需要が急激に増加し、石油を輸送するための容器としてドラム缶の需要も飛躍的に増加しました。
1918年に第一次世界大戦は終わり軍需は縮小しましたが石油産業の発展により民需が増加し、ドラム缶の需要も伸展しています。
日本に初めてドラム缶が上陸したのは、1920年代、相次いで行われた新油田の開発により、石油の供給が過剰になり日本にも安値で輸入される様になった頃です。
1924年(大正13年)名古屋港に入港したアメリカ船に積まれていた空きドラム缶を買い取り、名古屋の石田商店の店頭に陳列したものを、新潟の小倉石油(後に日本石油と合併)が購入したのが、日本におけるドラム缶流通の最初だといわれています。
日本におけるドラム缶の歴史
第一次世界大戦が終結し、経済は世界的に低迷しました。1929年には金融大恐慌、関東大震災と日本の経済も大きな打撃を受けましたが、石油精製業だけは発展を続けていきました。
石油需要の増加に伴い、ドラム缶の需要も増えていきましたが、当時、使用されていたドラム缶は、そのほとんどがアメリカから輸入されたもので、次第に需要に追いつかなくなっていきました。
1931年(昭和6年)9月には満州事変が勃発し、大量の軍需によりドラム缶の需要はさらに増加し、市場には中古のドラム缶も流通するようになり、同年、横浜市淺間町には、日本で初めてのドラム缶更生工場「神奈川ドラム」が設立されました。
また、増大する需要に対応するため、1932年(昭和7年)日本における初めてのドラム缶製造会社「合資会社日本ドラム罐製作所」が設立され、国産ドラム缶の製造が開始されたのを皮切りに、その後、石油用を中心に全国各地にドラム缶製造工場が設立されていきました。
戦火が太平洋戦争へと拡大していくのに伴い、石油製品・工業薬品とともに、その容器であるドラム缶も軍役の最重要資材の一つとされ、ドラム缶の製造工場も軍の管理工場として増産につぐ増産を強いられ、日本におけるドラム缶産業の基盤が確固たるものになっていきました。